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順治帝

順治帝(じゅんちてい)は清朝の第3代[1]皇帝(在位1643年 - 1661年)。在世時の元号順治を取って順治帝と呼ばれる。

ホンタイジの第9子として生まれる。母は孝荘文皇后。1643年、ホンタイジが急病で遺言を残さずに死んだ。ホンタイジの長子は粛親王ホーゲ(豪格)であったが、叔父の睿親王ドルゴンを推す一派もあり、双方の牽制の結果、ホーゲの異母弟である6歳のフリンが皇帝となり、ドルゴンが摂政となった。

翌1644年の3月19日に李自成率いる順軍が北京を陥落させ明を滅ぼす。

清軍はドルゴンの主導の下に、山海関を開城して清に下った呉三桂を先頭に北京へ向かった。北京の大順軍は明を滅ぼした後、各々の官職を決めたり、明の高級官僚を処罰したりに忙しかったが、山海関の中に入った清軍を4月23日に迎え討った。清軍は大勝し、さらに敗走する李自成を追って通城(現在の湖北省)まで南下し、順を滅ぼした。

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1650年(順治7年)にドルゴンが死に、13歳の順治帝による親政が始まる。順治帝は「朕は今日官民の苦を均しく知る」と宣言し、内政の改革を始めた。当時は全国各地から名産品を皇帝に献上する事になっていたがこれをいくつかの場所で止めた。また質の悪い官僚を追放し、官職の合理化を進め、税金逃れのために僧や道士になっている者を還俗させた。

また宦官が政治に関与する事を厳重に禁止し、破れば即座に死刑になった。歴代の王朝の衰退の大きな原因となった宦官悪は清代ではほとんどその姿を現さなかった。順治帝は漢文化に心酔していて非常な読書家であり、自らだけでなく臣下にも積極的に漢文化の習俗を取り入れさせた。

1659年(順治16年)、鄭成功の北伐軍を跳ね返し、国内をほぼ平定した。

1661年(順治18年)に天然痘で急死する。24歳での若すぎる死に「順治帝は死んだのではなく、本当は寵愛する妃の菩提を弔うべく出家して五台山で生きている」との説ができ、「孝陵(順治帝の陵墓)には、骨壷はあっても棺はない」とも噂された。順治帝の遺体は、仏教に傾倒していた本人の希望で火葬されたようである。清東陵に陵墓がある。

順治帝は中国に入った後の清の土台を確固たる物とし、次代の康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三世の春、いわゆる康雍乾盛世の黄金時代を導く役割をした。三世の影に隠れてはいるが、三世に負けない名君である。

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2009年04月30日 09:03に投稿されたエントリーのページです。

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