2009年06月20日

医療シミュレータは、医療に従事する者への

医療シミュレータは、医療に従事する者への治療法/診断法/概念/意思決定についての教育の目的で、近年開発が盛んになってきている。医療シミュレータによる訓練は、単純な血液採取から腹腔鏡手術まで各種存在する。また、新型医療機器の開発においてもシミュレーションは重要である。医療シミュレータでもコンピュータが重要な役割を担っている。実物大の人形を用いたシミュレータでは、人形への薬物投与などによって適切な反応を示すようにプログラムされている。視覚をコンピュータグラフィックスで擬似する場合、触覚は訓練者の動作に反応するようプログラムされたフィードバック機器で再現する。この場合、現実性を増すために実際の患者のCTやMRIのデータを用いることが多い。より簡便なシミュレーションとして、ウェブブラウザで操作できるものもあるが、触覚は再現されず、キーボードとマウスで操作することになる[1]。

医療シミュレータとは若干意味が異なるが、偽薬を使った医薬の有効性の試験も一種のシミュレーションと言える。

経済・金融 [編集]
個々の人々は仮に自分の利益追求だけを求める単純なモデルと考えたとしても、社会全体としての動きを知る事は出来ない。単純が複数集まるとそこには、様々な性質が生まれるという複雑系であるためで、これもまた、コンピュータの膨大な計算のシミュレーションによって予想されうるものであるが、実際のところ株価や物価の変動など、経済の動きを予測することは容易ではない。

金融においては、コンピュータシミュレーションを用いてシナリオ立案が行われる。例えば、リスクを考慮した正味現在価値 (NPV) は計算方法は確立しているが、入力値は不明な場合がある。評価対象のプロジェクトの性能を擬似することで、シミュレーションによって様々な場合の NPV が求められる。
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デザイン・都市景観 [編集]
コンピュータグラフィックス(CG)によって作成されたバーチャルリアリティ映像を、工業デザインや建築デザインの成果物を事前評価するのに用いる。例えば建築物や構造物による景観への影響を予測する景観シミュレーションの場合、実写風景の上で建物のCGと組み合わせたり、建物や背景の全てをCGで構築し、実際に建築した様子に近い景観を観察することが出来る。コンピュータの計算能力が実用に達するまでは、手作業により遠近法にそって書かれたパース画を作成し評価していた。

都市計画のツールとして都市シミュレータを使って、様々なポリシーの決定によって都市がどのように変わるかを把握することができる。大規模な都市シミュレータの例としては、UrbanSim(ワシントン大学で開発)、ILUTE(トロント大学で開発)、Distrimobs(ボローニャ大学で開発)などがある。都市シミュレータはエージェントに基づくシミュレーションが一般的で、土地の利用計画や交通機関などが入力として設定される。

景観シミュレータと都市シミュレータの開発を行う研究分野は、一般的に計画支援システムと呼ばれている。

2009年06月02日

樹皮やごみなどが混ざっているので

あらみには、樹皮やごみなどが混ざっているので、まず少し加熱して流動性を上げてから濾過をする。現在は、綿を加えた上で、遠心分離器で分離する方法も使われている。濾過が終わったものは生漆(きうるし)と呼ぶ。

生漆の精製は、攪拌して成分を均一にして粒子を細かくする「なやし」と天日などで低温で水分を蒸発させる「くろめ」という二つの工程に分類される。また、これらの工程で用途や品質に合わせて油分や鉄分等の添加剤が加えられて精製漆となる。

精製時に鉄分を加えると、ウルシオールなどとの化学反応で、黒い色を出す事ができ、黒漆(くろうるし)となるが、鉄分を加えないと色の薄い透漆(すきうるし)となる。
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精製漆には有油系と無油系の二系統に大きく分類される。一般に有油系は発色・つやがよく加飾や上塗りに用いられる、無油系は研磨(研ぎ出しや蝋色仕上げなど)に向いている。

精製が終わった透漆には、必要に応じて朱色(辰砂)などの顔料を加えて色を付けて使用する。

主な漆の種類 [編集]
基本的に用途と品質(等級)によって分類される。地域や業者によって名称が異なる場合もある。

生漆系:生漆、船漆、錆(下地)漆、生上味漆(高品質なもの)

無油系:素黒目漆、木地呂漆、赤呂漆、黒呂色漆、梨地漆

有油系:朱合漆、箔下漆、春慶漆

漆とかぶれ [編集]
生の漆が肌につくとかぶれるが、これはウルシオールによるアレルギー反応である。ウルシオールのアレルギーを持つ人は、漆の木の近くを通過しただけでもかぶれることがある。果物のマンゴーもウルシ科の植物で、人によってはかぶれる事がある。かぶれの程度と症状は、人によって実にさまざまである。始めは漆が付着した部分のみであるが、かいたり刺激することで徐々に蔓延し、酷い場合には全身にまで広がる。市販の薬では、気休め程度で全く効果がなく 手がつけられない。対処法は漆に触れないこと、ただそれだけである。

漆器ではかぶれることは無いが、まれに、作られて間もない場合、かぶれる事もある。これは重合され残ったウルシオールが揮発するためである。十分に重合が進んでいれば、かぶれることはない。

古来人々は、漆には特別な力があるとされ魔除けとして重宝されてきた。触るとひどくかぶれる漆には、邪悪なものを寄せ付けない力があると考えられたからだと思われる。

漆にかぶれた場合は、ワラビの根を煎じた汁、煮た沢蟹の汁、硼酸水などを患部に塗る民間療法がある。

漆にまつわる伝承 [編集]

漆塗の起源 [編集]
以呂波字類抄に、日本における漆塗の起源として次のような話が載っている。

倭武皇子(やまとたけるのみこ)は、宇陀の阿貴山で猟をしていたとき大猪を射たが、仕留めることができなかった。漆の木を折ってその汁を矢先に塗って再び射ると、とどめを刺すことができた。そのとき汁で皇子の手が黒く染まった。部下に木の汁を集めさせ、持っていた物に塗ると美しく染まった。そこでこの地を漆河原(現在の宇陀市大宇陀区嬉河原(うれしがわら))と名附け、漆の木が自生している曽爾郷に漆部造(ぬりべのみやつこ)を置いた。

即身仏と漆 [編集]
自分自身のミイラを仏像、すなわち即身仏とした修行者達は身体の防腐のために予めタンパク質含有量の少ない木の実のみを食する「木食」を行うと共に、「入定」(死して即身仏となること)の直前に漆を飲んでその防腐作用を利用したという。

2009年04月30日

順治帝

順治帝(じゅんちてい)は清朝の第3代[1]皇帝(在位1643年 - 1661年)。在世時の元号順治を取って順治帝と呼ばれる。

ホンタイジの第9子として生まれる。母は孝荘文皇后。1643年、ホンタイジが急病で遺言を残さずに死んだ。ホンタイジの長子は粛親王ホーゲ(豪格)であったが、叔父の睿親王ドルゴンを推す一派もあり、双方の牽制の結果、ホーゲの異母弟である6歳のフリンが皇帝となり、ドルゴンが摂政となった。

翌1644年の3月19日に李自成率いる順軍が北京を陥落させ明を滅ぼす。

清軍はドルゴンの主導の下に、山海関を開城して清に下った呉三桂を先頭に北京へ向かった。北京の大順軍は明を滅ぼした後、各々の官職を決めたり、明の高級官僚を処罰したりに忙しかったが、山海関の中に入った清軍を4月23日に迎え討った。清軍は大勝し、さらに敗走する李自成を追って通城(現在の湖北省)まで南下し、順を滅ぼした。

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1650年(順治7年)にドルゴンが死に、13歳の順治帝による親政が始まる。順治帝は「朕は今日官民の苦を均しく知る」と宣言し、内政の改革を始めた。当時は全国各地から名産品を皇帝に献上する事になっていたがこれをいくつかの場所で止めた。また質の悪い官僚を追放し、官職の合理化を進め、税金逃れのために僧や道士になっている者を還俗させた。

また宦官が政治に関与する事を厳重に禁止し、破れば即座に死刑になった。歴代の王朝の衰退の大きな原因となった宦官悪は清代ではほとんどその姿を現さなかった。順治帝は漢文化に心酔していて非常な読書家であり、自らだけでなく臣下にも積極的に漢文化の習俗を取り入れさせた。

1659年(順治16年)、鄭成功の北伐軍を跳ね返し、国内をほぼ平定した。

1661年(順治18年)に天然痘で急死する。24歳での若すぎる死に「順治帝は死んだのではなく、本当は寵愛する妃の菩提を弔うべく出家して五台山で生きている」との説ができ、「孝陵(順治帝の陵墓)には、骨壷はあっても棺はない」とも噂された。順治帝の遺体は、仏教に傾倒していた本人の希望で火葬されたようである。清東陵に陵墓がある。

順治帝は中国に入った後の清の土台を確固たる物とし、次代の康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三世の春、いわゆる康雍乾盛世の黄金時代を導く役割をした。三世の影に隠れてはいるが、三世に負けない名君である。

2009年04月15日

エリザベッタ・ファルネーゼ

エリザベッタ・ファルネーゼ (Elisabetta Farnese, 1692年10月22日 - 1766年7月11日)は、スペイン王フェリペ5世の2度目の王妃。パルマ公ラヌッチョ2世と、プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムの娘ドロテア・ソフィアの長女。スペイン名イサベル・デ・ファルネシオ(Isabel de Farnesio)。イサベラ・ファルネーゼとも呼ばれる。

21歳で結婚。彼女をフィリップの後添えに推薦したのは、王宮を取り仕切る老嬢ウルシノス夫人、そして政治面での王のアドバイザー、アルベローニ枢機卿だった。

パルマでの代理結婚ののち、スペインに到着すると、王の意志決定を左右するウルシノス夫人を追放し、エリザベッタは瞬く間に意志の弱い王を完全に影響下に置いた。政治ではアルベローニと理念を同じくした。すなわち、古来からのイタリア領、サルデーニャとナポリ・シチリアをスペインの支配に置くことである。王には既に先妻との間の王子たち、ルイスとフェルナンドがいたため、自分がこれから生む子供たちにスペイン王位と同等のイタリア君主の称号と領地を与えるのがエリザベッタの目標となった。彼女は精力旺盛に政治に介入、フランス軍がピレネー山脈を越えてきた際、彼女は自身でスペイン陸軍の一師団を指揮した。

エリザベッタの野望は、三国同盟に裏を書かれてこっぴどく打ち砕かれた。1720年についにアルベローニ枢機卿の追放を余儀なくされ、シチリアから撤退しなければならなくなった。そして、彼女が思いとどまるよう説得をしてきたにもかかわらず、1724年にフェリペが突然長男ルイスに譲位して、自らはラ・グランハ宮殿に引きこもってしまった。

ルイス1世は在位7ヶ月で天然痘で死去したが、フェルナンド王子がまだ幼少のため、フェリペが復位した。この時、既にフェリペは廃人同様で、エリザベッタがスペインの政治の主導を握った。叔父のパルマ公アントーニオが死ぬと、嫡男がなかったため、彼女の長男カルロスがパルマ公となった。ポーランド継承戦争の結果、1736年にパルマ公位は手放すことになったが、引き替えにナポリとシチリアの王位がカルロスのものとなった。

フェリペが死に、フェルナンド6世が王位につくと、王は義母をいたわる名目でラ・グランハへ押し込めた。しかし、エリザベッタは虎視眈々と、カルロスのスペイン王即位を狙った。即位した時には王妃バルバラは既に30代を超えており、子供が生まれる見込みは薄かった。このままフェルナンド夫婦に子供が生まれなければ、王位はカルロスのものだった。

エリザベッタの願望どおり、フェルナンドは子供のないまま病没。愛子カルロスがカルロス3世として即位した。この頃、彼女は夫と同じ病気を患い、昼夜が逆転した生活を送っていた。そのため、王は母エリザベッタと暮らすことができなかった。エリザベッタは、夫より20年も長生きしたが、同じような状態でラ・グランハで亡くなった。

子供たち
7人が生まれ、成人したのは6人である。

カルロス3世(1716年 - 1788年)
マリアナ・ビクトリア(1718年 - 1781年) ポルトガル王ジョゼ1世妃
フィリッポ(1720年 - 1765年) パルマ公。ブルボン=パルマ家の祖。
マリア・テレサ(1726年 - 1746年) ルイ15世の長男ルイ王太子の最初の妻。
アントニオ(1727年- 1 785年) 枢機卿。チンチョン伯の称号ももつ。
マリア・アントニエタ(1729年 - 1785年) サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ3世妃。
ジーセ ヨガア シチュー タン総合 ハニート マイペー ブラカップ ローラー 冬の花火 マンダ ヤーン パンチカド オーバル クロマ 海眺望 トルエ ナンプラー シーオーイ インター ケット モブシ 京野 リンケ オーディ ユニコー オプテ クローザー ハーバ ナイタ スカップ パラド ショコラ ショート サイクリ ナサ ブルー ハロウィン ナックル 湾岸道路 ユンド ロールカ ロイシン テアフ ライフ プライス パワー センサス セオドラ ソフト ミラノ

2009年03月31日

栃木山守也

栃木山 守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1959年10月3日)は、大正時代に無敵を誇った大相撲の第27代横綱。栃木県下都賀郡赤麻村(現在の藤岡町赤麻)出身。本名:横田(のち中田)守也。

体重103kgで「史上最軽量の横綱」と形容される。身長は172cm。現在でも春日野部屋の力士が「栃」のつく四股名を名乗るのは、部屋の開祖である栃木山にならってのもの。

農家の長男として生まれる。遅くにできた男子だったので、「家を守り立てて欲しい」の願いから、「守也」と名付けられたという。しかし、18歳で半ば家出の形で上京、出羽ノ海部屋に入門する。歴代横綱の中で、自ら望んで角界入りした者は実は珍しい。

直接の動機としては、鉱毒のためやせ衰える郷里に絶望したからとも、親の決めた許婚者と性格が合わなかったからとも言われるが、当人が語りたがらなかったこともあって、はっきりしない。後年、行司・木村宗四郎との養子縁組話が持ち上がった時には、周囲も驚くほどあっさりと合意したという。一世を風靡した横綱にしては郷里への寄贈品なども少なく、多くは春日野の名跡をついだ栃錦清隆がその死後に名代としておこなったものである。

幼少時代に海を見たことがなく上京のために乗った列車で初めて海を見て「でっかい川だなあ」と言ったと伝わりこの時一緒に乗っていた兄弟子の宇都宮は後々までこれを話の種にしていた。

現役 [編集]
明治44年(1911年)2月場所、初土俵。序ノ口以来負け知らずで番付を上げ、大正2年(1913年)5月場所の幕下のときまで21連勝を果たした。入幕までに喫した黒星がわずかに3(栃木山に初めて黒星をつけたのが、のちの大関千葉ヶ嵜)というスピード出世だったが、その軽量のために幕下にあがるころまで師匠の出羽ノ海(常陸山)からもほとんど省みられなかったという。

当時としては非常に珍しい左利きだったが、指導を担当した若者頭から左を効かせるためには右も強くしろと言われ、それを守って強くなったと伝わる。その怪力を伝える逸話として、秋の収穫時、巡業地の駅の端の方に米俵(60kg)が三角の山に積んであることがよくあった。ある雨の日、栃木山が左手で傘を持ち、高下駄をはいたまま右手で縄をつかんで真ん中の俵を引き抜き、そのまま肘も曲げずに差し上げ、また三角の山の真ん中に差し込んでおいたという。

新三役(小結)に昇進した大正5年(1916年)5月場所8日目に、当時無敵で56連勝中の横綱太刀山をもろ差しから一気に寄り立てる大殊勲の星をあげ、新聞は号外を出すなど大騒ぎとなった(このときのエピソードとして、勝って花道を引き揚げる途中で背中に百円札が2枚貼られ、一晩の祝儀が一万二千円に達したが、場所後仲間を引き連れて三日で使い果たしたという)。太刀山はこれ以前にも大関2代西ノ海に敗れる(明治45年(1912年)1月場所8日目)まで43連勝があり、これがなければ100連勝となっていた。当時の新聞には「明治45年(1912年)春の西ノ海戦は八百長、太刀山明治42年(1907年)夏の碇潟戦以来8年ぶりの土」と報じたものもあった。

大正6年(1917年)5月場所、大関昇進。以降大正8年(1919年)1月場所まで5場所連続優勝。この間、1918年5月場所で横綱昇進を果たす。栃木山の本当の強さは大関昇進以後にあったといえる。大関2場所は9勝1預、10戦全勝で負け無し(大関時代無敗での横綱昇進はその後双葉山のみ)。この大関昇進の場所が初優勝で、それから5場所連続優勝を入れて合計9回の優勝を成し遂げている。しかも栃木山の凄さは、大関昇進後ほぼ全ての場所に優勝争いに加わっていることにある。風邪で途中休場した1場所を除き、9場所で優勝、6場所で半星差の準優勝、残る1場所は優勝力士との間に半星差の準優勝力士を挟んで1勝差の3位だった。大正9年(1920年)5月場所などは8勝無敗1分1預ながら、優勝者は1勝多い9勝(1敗)の大錦、翌年1月場所も無敗だが預り一つの差で大錦が優勝している。幕内通算成績は166勝23敗7分4預24休・勝率8割7分8厘だが、横綱在位中の成績は116勝8敗3預9休・勝率9割3分5厘である。栃木山以降、在位中の勝率が9割を超えた横綱は出ていない。この安定感をもって、近代最強力士に推す意見も多い。

大正13年(1924年)1月場所から翌年1月場所までを3場所連続優勝の後、翌5月場所直前で突然の引退表明(この間、大正13年5月場所から翌年5月場所まで3場所番付上では張出横綱であったが、栃木山の場合は当時の正横綱・3代西ノ海、常ノ花より上位という意味での特別な張出横綱であった)。このエピソードは現在まで横綱の引退の理想像として伝説的に語り継がれている。しかし、当時においては、関東大震災による国技館の損失など、相撲界が苦難の時期、第一人者の突然の引退には批判も強かった。当時他にも2横綱(3代西ノ海、常ノ花)がいたが彼らよりまだずっと強かったので、周囲は誰しもその引退には反対し、まだ5年は勤まるとの声まであった。

これについては3連覇しながら張出のままとされた番付面での不満などの諸説があるが、当人は「衰えてから引退するより、力のあるうちにやめたい」とだけ語った。まことしやかに語られる別の説として「観衆からハゲだハゲだといわれるのがしゃくだった」という話もある。「巡業などでハゲと野次が飛ぶと、見るからに不機嫌になった。その鬱憤を稽古でぶつけられるので、こちらはたまったものではなかった」と弟弟子の常ノ花は証言している。

後年、弟子の栃錦が横綱に昇進した時には、「これからは毎日やめる時のことを考えて過ごせ」と諭した。

太刀山の突っ張りに対抗して磨いた出足鋭い押し相撲。出羽海部屋の弟弟子・天龍三郎によれば、立合い自分が用心していないと、その出足で自分の首に電気が走り痛めるほどであった。先に述べたような怪力の右手でおっつけられた相手は腕がねじきられるのではないかと思ったという。利き手の左ハズ押しは十八番で、右おっつけ左ハズ押しの型になれば盤石であった。右で相手の左肘下をつかんでねじり上げ、左を浅くのぞかせて返すと、腰を割ったまますり足のすごい出足で押す一点張り。そのすり足によって土俵に土煙が舞い、勝負の決まった後にはレールのような二本の線がくっきりと残っていたという。まわしを取らないかわりに相手にも取らせない。もし取られれば必ず切ってから攻めに入った。ハズ押しの完成者といわれ「相撲の型を完全に身につけた力士は栃木山が最後だろう」と天龍も認めていた。近代相撲の開祖とも評される。

幕内で対戦した力士で負け越したのは太刀山(1勝2敗)と大関2代朝潮(1勝3敗)だけ。朝潮には5連覇中唯一の黒星[1]を与えており、これがなければ54連勝を達成しているところだった。他には関脇清瀬川を苦手にし、大関昇進後唯一2敗(6勝)している他、2分1預がある。鳳谷五郎は初顔合わせから2場所連続で金星を奪うなど4勝1敗とカモにし、3代西ノ海とは2勝1分。同部屋の大錦や常ノ花とは、当然本場所での対戦はないが、稽古場では問題にならない力量差だったという。大錦とは大坂相撲との合同による「出身地別対抗戦」の千秋楽結びの一番に全勝同士で対戦、開催地が大阪ということもあって、同地出身の大錦に花を持たせるのでは、との周囲の予想を裏切ってあっさり押し出しに破ってしまった。

数え19歳のとき19貫(71kg)、20歳のとき20貫(75kg)、21歳のとき21貫(79kg)と数え年齢と貫目が同じ数字で増えていき、27歳で27貫(101kg)になったあとは、巡業から帰り、稽古過多で27貫になると稽古量を減らして場所初日には27貫500(103kg)にもっていく。場所後ホッとして28貫(105kg)になると「体に汗が貯まった」と猛稽古で汗をしぼり出し、下回れば稽古量を減らすなど、本場所中は必ずベストの27貫500で相撲を取った。栃錦がのちに相撲協会理事長の地位にあった時、「身体が小さくても本当に強かった横綱は(自分の見て来た中では)3人、師匠栃木山と、若乃花、千代の富士だけだ」と語っている。
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103キロは歴代横綱中最軽量で、上記の逸話などから小兵力士のイメージが強いが、当時の幕内力士の中では中量級といえる体躯だった。例えば5連覇中に対戦のあった19人のうち、約半分の9人が90キロ台の力士だった。

当時の出羽ノ海部屋には玉錦のように他の部屋から預けられた力士も大勢いたが、栃木山はそういった力士にも区別なく稽古をつけていた。玉錦はそのときの恩義から、生涯栃木山には頭が上がらなかったとされる。また巨人力士出羽ヶ嶽のように、他の力士が稽古を嫌う力士との稽古も積極的に行なった。このあたり、師匠の出羽ノ海(常陸山)とよく似ている。

押しの速攻は土俵入りにも現れ、非常に速いものであった。この速さは彼の弟子で後にこの型を受け継いだ栃錦に受け継がれた。

^ 他に1預1休。1休は相手力士休場によるもので、現在なら不戦勝。なお、この時の休場力士も朝潮。

年寄・春日野 [編集]
引退後は養父である行司・木村宗四郎の持ち株であった年寄・春日野(8代目)を襲名。当時「分家を許さず」の不文律があった出羽ノ海部屋から例外的に独立を許され、春日野部屋を創立した。不文律の作者常陸山がただ1人認めた例外であった。これは、養父の名跡を受け継ぐものであるし、人物的にも評価されてのことだった。引退後の1926年3月から約1年間欧米巡遊の旅に出た。

常陸山の死後後継問題をめぐって紛糾した折、出羽海後継の有力候補と見なされたが、すでに独立を許されているからと一番に身を退いた。

1931年(昭和6年)には第1回の全日本力士選士権に参加。現役の玉錦、天龍らを破って優勝を飾った。これについて、玉錦らには日頃から稽古をつけており手のうちを知っていたのではないか、現役の側に遠慮があったのではないか、などの意見もあるが、ともかくその引退が衰えによるものではなかったことを証明してみせた形だった。また現役時代に13尺土俵で一時代を築いた栃木山が、現在と同じ15尺土俵でも無敵を発揮したという意味で、この逸話は特筆される。史上最強の力士は誰か、といった論議の際に江戸~明治期の伝説の名力士たちが、15尺土俵でもあのような高勝率を残せたかどうかが、重要な論点の一つになるからである。事実、13尺土俵時代に突っ張りや押しを武器として活躍した力士の多くが15尺土俵になってから苦闘を強いられている。

後日談として、周囲から「年寄が勝ってどうするんだ」「相撲をつぶす気か」と、あるいはひやかされ、あるいは本気で叱責された。22代木村庄之助は「春日野さんがあまりにも強すぎた」と述べているが、当時相撲関係者の間では実際には現役力士は非常に弱いのではないかとの疑惑が巻き起こった。なお、翌年の同大会では選手権保持者として出場し、トーナメントで勝ち残った玉錦と三番勝負による挑戦を受け、ストレートで敗れたが、その辺の配慮があったのかもしれない。以降、第3回大会からは現役力士のみが出場することになった。

1932年(昭和7年)1月の春秋園事件で取締陣総辞職の後を受けて協会取締に就任、兄弟弟子である出羽海理事長(常ノ花)を補佐した。

部屋を開いた当初は弟子が育たず困難続きだったが、戦後は横綱栃錦らを育成するなど晩年は賑やかな様相を呈した。横綱栃ノ海、大関栃光らも栃木山存命時の入門である。

年寄としては「この人が本当にそんなに強かったのか」といわれるほど、春風駘蕩という性格で知られた。「力士は寡黙であれ」が美徳とされた時代から、「記者のむこうに数百人の読者がいるのだから」と弟子たちにマスコミ対応を徹底した。言葉遣いなどにも厳しく、鳴門海が徴兵されて出征する際、「行ってきます」と言ったのを聞きとがめられ、「行ってまいります、だろ?」と叱咤されたことを回想している。

一方その怪力ぶりは衰えを知らず、昭和30年代のある日には弟子の栃光とその付き人達が動かそうとして動かなかった大火鉢を1人で軽々持ち上げ動かしてしまった。引退後に渡米したおり、ある酒場で飲んでいると腕力に自信のある者(プロボクシング世界ヘビー級王者ジーン・タニーという説あり)が彼の前で鉄棒をへし曲げてみせたが、落ち着き払って同じ鉄棒を元のようにまっすぐにもどし、「こうしておいた方が便利なのに」と言ってのけたともいう。若い時から酒豪として知られたが、酒量は老いてなお晩酌に一升を超えていたという。

1952年(昭和27年)5月31日には当時の蔵前仮設国技館で赤い綱を締め露払い藤島(元安藝ノ海)、太刀持ち羽黒山を従えて還暦土俵入りを披露した。

主な成績 [編集]
幕内在位 22場所(小結1場所、関脇1場所、大関2場所、横綱15場所)
幕内通算成績 166勝23敗7分4預24休 勝率.878
幕内最高優勝 9回(全勝2回)
金星 2個(鳳)

2009年03月16日

春日大社

春日大社(かすがたいしゃ)は、奈良県奈良市の奈良公園内にある神社である。旧称春日神社。式内社(名神大社)、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。全国にある春日神社の総本社である。

藤原氏の守護神である武甕槌命と経津主命、祖神である天児屋根命と比売神を祀る。四神をもって藤原氏の氏神とされ、春日神と総称される。神紋は下がり藤。武甕槌命が白鹿に乗ってやってきたとされることから、鹿が神使とされる。

奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのに始まる。社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。

藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。平安時代初期には官祭が行われるようになった。当社の例祭である春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。850年(嘉承3年)には武甕槌命・経津主命が、940年(天慶3年)には、朝廷から天児屋根命が最高位である正一位の神階を授かった。延喜式神名帳には「大和国添上郡 春日祭神四座」と記載され、名神大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。
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藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、813年(弘仁4年)、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった。11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった。

明治4年に春日神社に改称し、官幣大社に列した。1946年(昭和21年)12月に現在の春日大社に改称した。

本殿 [編集]
春日造の本殿が四殿並んで建っており、第一殿に武甕槌命、第二殿に経津主命、第三殿に天児屋根命、第四殿に比売神が祀られている。拝殿はなく、一般の参拝者は幣殿の前にて、初穂料を納めて特別拝観を申し込んだ場合は本殿前の中門から参拝することになる。

摂末社 [編集]
広大な境内には多数の摂末社がある。本殿の東側には比売神の御子神として天押雲根命を祀る摂社若宮神社があり、若宮神社、夫婦大国社を始めとする本殿東側の十二社は、「福の神十二社めぐり」として古来より崇敬を集めている。

本殿廻廊の西南隅には、摂社・榎本神社(式内小社)がある。榎本神社の祭神は当地の地主神であり、元々この地で祀られていた神であるとされる。現在の祭神は猿田彦大神であるが、中世までは巨勢姫明神とされていた。

祭事・年中行事 [編集]
旬祭(毎月1日・1日・21日)
神楽始式(1月3日)
御祈祷始式(1月7日)
舞楽始式(1月10日)
節分万燈籠(節分の日)
御田植祭(御田植神事)(3月15日)
ひと雛まつり(4月3日)
水谷神社鎮花祭(4月5日)
菖蒲祭(端午の節供祭)(5月5日)
献茶祭(5月10日)
薪御能(5月11日 - 12日)
夏越大祓式(6月30日)
中元万燈籠(8月14日 - 15日)
采女祭(中秋の名月の日)
重陽節供祭・献香祭(10月9日)
文化の日舞楽演奏会(11月3日)
春日若宮おん祭(12月15日 - 12月18日)
年越大祓式(12月31日)

2009年03月01日

爆発物や地雷の処理にも特殊技能

トリップワイヤー
声 - 鈴木勝美/英 - ロブ・ポールセン
G.I.ジョーの鉱物調査員。
本名:ターマッド・スクッグ
特技:鉱物探索、爆発物処理
出身地:キューバ
鉱物を調査すると同時に、爆発物や地雷の処理にも特殊技能を発揮するトリップワイヤーは、変った経歴の持主である。 横須賀の海軍基地にあるハイスクールに通っていたが、破天荒な行動が問題となり中退してしまった。 その後2年ほど禅寺で人生修行のためガマンしてみたが、持ち前の性格からどうにも落ちつけず、19歳の時、GIジョーチームの存在を知り、志願した。 彼はいつも陽気で、まわりの人を楽しい気分にさせるが、こと爆発物に関しては冷静そのものになる。 鉱物調査とあわせ、自分の天職だと彼は信じている。
トルペード
声 - 幹本雄之/英 - マイケル・ヤマ
G.I.ジョーの特殊潜水隊員。
本名:エドワード・レイアロハ
特技:スキューバーダイビング
出身地:アメリカ合衆国 ハワイ
トルペードは、スキューバーダイビングの指導員をしていた。 また19歳までに3種類の格闘技で黒帯を取った。 ウーシュー挙、挙法、剛柔流空手の3種で、いずれも技として取得するのは難しいものばかりである。 さらにナイフテクニックや各種武器の扱いについて、特殊訓練学校で身につけてしまった。 ものすごいエネルギーと技を持つトルペードは、自分にきびしい菜食主義者でもある。 難易度の高い任務を、強い意思でなしとげられるよう、休日はすべて修練にあけくれている。 なかでも射撃の訓練には特に力を注いでいる。
スノージョブ
声 -喜多川拓郎/英 - ロブ・ポールセン
G.I.ジョーの北極警備隊員。
本名:ハーラン・ニッカネン
特技:スキーパトロール、ライフル射撃教官
出身地:ノルウェー
スノージョブは、オリンピックのバイアスロン競技の選手でゴールドメダリストであった。 数々のかがやかしい記録を打ちたてた彼は、その技能を買われて陸軍の技術兵員となったが、 さらに自分の可能性をためすためにGIジョーチームに志願した。 どんなことでもスキーをはいて実行できる彼であるが、なかでもライフル射撃がすごい。 ほとんど人間技とは思えないほどである。 猛スピードで滑走しながら、長距離射撃の技術で、コブラのヘリコプターを狙撃する。 これは芸術だ、と言われるほどである。
レディJ
声/ 英 - メリー・マクドナルド=ルイス
G.I.ジョーのサブリーダーであるフリントのパートナーにして恋人。
クラッチ
バンプジープドライバー。
本名:スタインバーグ・ランス
特技:ドライバー、メカニック、カーレース
出身地:オーストラリア
クラッチはG.I.ジョーに入いる前は自動車整備工場でメカニックをしながら、 休日には自分の改造した車でカーレースに熱中していた。 自分のメカニックの腕と運動技術に自信をもったクラッチは入隊を決意し、 レンジャースクール、機密情報学校、特殊警護学校等を優秀な成績で卒業した。 レーサーの経験からバンプジープの運転を進んで志願した彼は自分の好きな仕事を続けられることに満足している。 車に夢中の彼は、オシャレにはまったく関心がない。 ひげは一月に一度剃るだけだし、髪の毛にはモーターオイルがしみついている。
カバーガール
声/英 - リビィ・オーブリー
ウォルバリンドライバー。
本名:クリガー・コートニー
特技:AFV力学
出身地:フランス
カバーガールはG.I.ジョーチームに入る前はシカゴとニューヨークでハイファッションのモデルをしていた。 ある日、モデル業に幻滅し、人生に”新しい方向付け”をしたくてG.I.ジョーチームに加わった。 自己を証明するには、自分の美しさと無関係の仕事をしなければならないとカバーガールは判断。 そこで全く非女性的な分野をあえて選び、習得したのだ。 彼女の自信と驚くほどの美ぼうは、ほとんどの男どもをたじたじにし、口ごもらせてしまう。
フロストバイト
声/英 - クリス・ラッタ
スノーキャットドライバー。
本名:スワード・ファーレイ
特技:モーター車輛運転
出身地:アラスカ州
アラスカの辺地で生まれたフロストバイトは、夏の間はうわさでしか存在しない。 一時期、送油管の工夫として働いたが、氷点下40度以下の厳しい条件下での単調な仕事にあきあきしていた。 その後G.I.ジョーチームに入った彼は、極地の安全を守るため、スノーキャットドライバーとなった。 彼は常にクールだ。 もし彼のスノーキャットが故障し、5秒でも外へ出ていれば、たちまち素肌が凍ってしまう環境なのだから、パニックなどになっていられないのだ。
富有柿 クイッ リブート フットサ ラインス メスズ ファズ検索 ドックス イエロ ウィン だんがい ダーティー セント テープ サーチケ パラノイ モーゲージ ユーロ ムード ニュース チロロ レチノ サキソニ リピー プブック ヘデラ みそぎ タンバ 天王寺 火の鳥 イツァ タンタル はしゅ バイヤヤー レディネス フライト スロイス トレモロ 超特急 こたん はたけやま 応和 サウス テーベ シャレ トゴス スコッチ リーデー オフェンス ゲンノシ

ダスティ
声 - 若本規夫/英 - ニール・ロス
砂漠でのサバイバル術を得意とする。顔に迷彩模様を描いている。
クイックキック
声 - 喜多川拓郎/英 - ニール・ロス
本名:マッカーサー・イトウ
上半身裸にして裸足で活動をする空手師範。大阪弁(劇場版では、標準語)で喋る。日本人の父親と、韓国人の母親を持つ混血児。少年時代は友達に恵まれず、孤独な時が多かった。バスケットボールが好きで、プロ野球選手を夢見たが、背が低すぎるため断念。その悔しさを格闘技にぶつけた結果、テコンドー、剛柔流空手、南派拳、大極拳刀術を習得した。ハリウッドでスタントマンをしていたところをG.I.ジョーチームに誘われ、入隊する。
サージェント・スローター
声 - 島香裕/英 - サージェント・スローター
G.I.ジョーの鬼教官。スローターハウスと呼ばれる訓練基地を構え、新兵や再特訓の必要なメンバーを「パーフェクトに」鍛え上げる。自身の戦闘能力も数十体のコブラB.A.T.(戦闘アンドロイド兵士)を単身で破壊しつくすなど常人離れしており、その指導力もあいまってコブラエンペラー・サーペンター創造の際にはそのDNAを狙われるが、有能な対抗馬の誕生を疎んじたコブラコマンダーの差し金で合成は阻まれ、結果としてサーペンターは指導者としての資質を幾分欠いた形で誕生する事となった。実在のプロレスラーであるサージェント・スローターがモデルであり、アニメでも本人が声を演じ、また劇場版以降のテレビシリーズではホスト役も勤めている。
バズーカ
バーベキュー
消防車で現場に急行する時の興奮と、斧を振るう刺激を求めて消防士になったという経歴を持つ。ボトルの栓を歯でこじ開ける変人。

2009年02月10日

越後騒動

越後騒動(えちごそうどう)は江戸時代に越後国高田藩で起こった御家騒動。藩政を執っていた首席家老小栗美作と、これに敵対するお為方を称する一族重臣とが争い、将軍徳川綱吉の裁定で両派に厳しい処分が下され、高田藩は改易となった。
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徳川家康の次男結城秀康は越前国北ノ庄(福井藩)67万石を領したが、元和9年(1623年)、二代松平忠直のとき乱行を理由に改易となった。寛永元年(1624年)、越前には越後高田を領していた忠直の弟忠昌が入り、忠直の子仙千代(光長)は越後国高田藩26万石を新たに与えられた。

光長は家康の曾孫にあたり、更に母は二代将軍秀忠の娘勝姫であり、御三家に准じる越後中将家として重んじられた。高田藩は開墾を盛んに行い内高は36万石あまりとなっていた。

小栗美作の執政
光長入封から41年目の寛文5年(1665年)12月、高田は地震により大きな被害を受け、藩政を執っていた家老小栗五郎左衛門・荻田隼人が圧死した。小栗五郎左衛門の跡は息子小栗美作が継いだ。小栗家は知行1万7,000石の首席家老の家柄で高田城代を、荻田家は1万5,000石で糸魚川城代をつとめていた。

美作は相当の知恵者であり、藩政にあたるようになると、幕府から5万両を借り受けて高田の町の復興にあて、高田の区画整理を断行して現在の上越市の市街を形成。この機に藩士の禄を地方知行制から蔵米制に改めた。また、直江津の築港、関川の浚渫、新田の開墾、特産品(たばこ)の振興、銀の発掘などに手腕を振るい、江戸の殖産家河村瑞賢を招き中江用水等の用水路の開さくを行った。美作は藩政に大いに治績を上げたが、蔵米制への移行は多くの藩士にとっては減収となり怨まれ、また美作自身の贅沢好きで傲慢な性格から悪感情を持たれ、藩主光長の異母妹お勘を嫁にしたことも妬まれた。

御家騒動
延宝2年(1674年)、光長の嫡子綱賢が男子なく死去した。光長は既に60歳で他に男子はなく、急ぎ世継を定めねばならなくなった。世継の候補は光長の異母弟永見大蔵(長良)、光長の甥永見万徳丸(光長の異母弟永見長頼の子)、そして同じく光長の甥にあたる小栗美作の次男大六(掃部)、松平義行(尾張徳川光友の次男)であった。評議の結果、永見大蔵は既に40歳を越える高齢であり、15歳の万徳丸を世継とすることで決まった。万徳丸は元服して将軍家綱から一字をもらい綱国となり、三河守に任官した。

綱国が世継と決まったが、家中では小栗美作が大六を世継にしようと企んでいるとの疑惑を持たれた。この頃、高田藩の財政は江戸住まいの光長の奢侈贅沢や小栗美作の諸事業の費用のため悪化していた。財政の建て直しのために新税を課したが、そのために小栗美作の評判は更に悪くなった。

荻田隼人の子の糸魚川城代荻田主馬、岡島壱岐などの重臣が永見大蔵と相結んで、小栗美作を憎む同志を糾合した。糾合した藩士は890名におよび自らを「お為方」と称し、小栗美作の一派を「逆意方」と呼んだ。延宝7年(1679年)正月、荻田主馬、永見大蔵らお為方は光長に目通りして同志890人の誓紙を差し出し、小栗美作の悪政を糾弾して、小栗美作の隠居を要求した。優柔不断の光長はお為方の強硬さに押し切られて小栗美作の隠居を命じる。小栗美作はやむなく隠居を願い出たが、家中に小栗美作が城下から逐電しようとしているとの噂が広まり、お為方が屋敷におしかける騒ぎとなった。光長が小栗美作を擁護して、お為方は一旦は引き取った。

小栗美作は大六に家督を譲るが、お為方は収まらずさらに騒ぎを大きくした。事態を収拾できなくなった光長は大老酒井忠清に裁定を訴え出た。酒井忠清は両派に和解を申し渡す。だが、騒ぎは収まらず同年4月には小栗美作が高田の町に火を放つとの流言が広がった。光長は鎮撫につとめ一旦は騒ぎは収まりかけるが、光長が参勤交代で荻田主馬、岡島壱岐らお為方の首領と江戸へ行くと、国許ではまた騒ぎが起きた。国許で騒ぎを起こしているのが永見大蔵と渡辺九十郎と知った光長は両名に江戸へ来るよう命じる。動きを封じられると思った永見大蔵と渡辺九十郎は江戸で同志を糾合しようと図った。このことが幕閣に知られ、先に和解を命じて無視された幕閣は激怒する。10月、幕府はお為方の永見大蔵、荻田主馬、片山外記、中根長左衛門、渡辺九十郎に人心を惑わした罪で大名家へのお預けの処分を下した。幕閣の裁定でお為方は敗れ、一方、小栗美作派では延宝8年(1680年)2月に大六が将軍に拝謁して元服している。お為方は小栗美作が大老に贈賄をしたと怒り、200人近くが脱藩する騒ぎとなった。

将軍綱吉の裁定
同年5月、将軍家綱が死去。綱吉が五代将軍に就任した。酒井忠清は大老を辞職した。綱吉はかつて酒井忠清が家綱の危篤に際して綱吉ではなく皇族(有栖川宮幸仁親王)を迎えて将軍に立てようと主張していた事を深く恨んでいた。また、高田藩への先の裁定にも不満を持っていた。更に忠清が擁立しようとしていた有栖川宮家の祖にあたる高松宮好仁親王の妃が光長の実の妹であった事も綱吉の疑念を深めていた。そこで、お為方は老中堀田正俊を頼って再審を願い出た。同じ頃、高田ではお為方の家老岡島壱岐と本多七左衛門が光長に暇乞いを願い出た。両名は将軍に拝謁した家来であり、その処遇には幕府の許可が必要であったため光長は幕府にお伺いを出した。綱吉はこの機会に先の裁定の再審を許可した。

再審は同年12月に始まり、小栗美作、岡島壱岐、本多七左衛門それに大名お預けとなった永見大蔵ら5名に江戸出府が命じられた。小栗美作とお為方は江戸で対決。お為方は小栗美作の悪政と専横(贅沢で人心を堕落させ、豪華な屋敷をつくったことなど)を言い立て、更に子の大六を世継にしようと企てたと主張。小栗美作はこれらの攻撃に雄弁に反駁した。年を越して詮議は続いた。延宝9年(1681年)6月、小栗美作、永見大蔵、荻田主馬が江戸城に召喚され、将軍綱吉の親裁が行われた。短い質疑の後、綱吉は裁定を下した。美作派に対しては小栗美作とその子大六は切腹、その親族と一派の者は流罪、大名家へお預けとなった。お為方に対しても首謀者の永見大蔵、荻田主馬は八丈島に、岡島壱岐、本多七左衛門は三宅島にそれぞれ流罪、その他も大名家お預け、追放となった。両派ともに極めて厳しい処分が下された。

藩主光長に対しても家中取り締まり不行届きであるとして城地没収の上、伊予松山藩主松平定直へお預けの命が下った。世継の綱国も備後国福山藩へ預けられた。

更に先の裁定を行った幕府関係者も流罪などの処罰がされ(酒井忠清は同年5月に死去している)、累は越後松平家の一門にも及び松平直矩は15万石から8万石を削られ播磨国姫路から豊後国日田へ転封、出雲広瀬藩主松平近栄は3万石から1万5000石へ削られた。

光長は後に罪を許され、松平直矩の子宣富を養子とし、宣富は美作津山藩10万石に封じられ越後松平家は再興している。

2009年01月24日

Sa・Ga2 秘宝伝説

ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル

『Sa・Ga2 秘宝伝説』(サ・ガ ツー ひほうでんせつ)は、1990年12月14日にスクウェア(現スクウェア・エニックス)からゲームボーイ用ソフトとして発売されたロールプレイングゲーム。Sa・Gaシリーズ第二作。北米版のタイトルは「Final Fantasy Legend II」であり、ファイナルファンタジーシリーズ外伝の扱いになっている。

ワンダースワンや携帯電話アプリとしてリメイクされた前作と異なり、長らくリメイクされなかったが2009年にニンテンドーDS版の発売が決定した。

前作『魔界塔士Sa・Ga』の特徴だった、経験値による成長を採用しないゲームシステムを踏襲し、一部改良されている。プレイヤーキャラは「人間」「エスパー」「メカ」「モンスター」の4種族に増え、それぞれの個性も一層豊かになった。

独特のシステムに磨きを掛ける一方、重要な会話やイベントが自動的に記憶される「メモ」機能や、主人公の先生が序盤をサポートしてくれるなど、初心者でもゲームに入り込みやすい配慮がされている。それでいて、すんなりゲームクリアできるほど難度は低くない。ほとんどの武器に使用回数がある制約も健在。

9つの世界といくつもの小世界を股に掛けた、父親の捜索と秘宝の争奪を軸にしたストーリーも変化に富んでいる。

なおゲーム発売時は、当時のゲームボーイソフトの外箱とは規格の異なる非常に巨大なサイズの外箱でパッケージングされていた。当時のファミコンソフトの外箱より大きい、このサイズが選ばれた経緯は不明である。同サイズの外箱は、後に『信長の野望 ゲームボーイ版』(光栄)などの一部タイトルで踏襲されている。

ニンテンドーDS版
2009年発売予定。基本的なゲームシステムやストーリーはゲームボーイ版に準じているが、マップの3D化を始めグラフィックは大幅に描き直されており、特にプレイヤーキャラクターの人間・エスパーはほぼ新規にデザインを描き起こしている。

大幅な変更としては、敵との遭遇がシンボルエンカウント方式になっている点と戦闘において『ロマンシング サ・ガ2』で導入された「閃き」及び『サガ フロンティア』で導入された「連携」が採用された点が挙げられる。

ストーリー
世界を創ったという古き神々の遺産は、77個の秘宝として残されている。そして、全ての秘宝を一つに合わせると「女神の像」になり、計り知れない力が蘇るという。

この強大な力を秘めた秘宝をめぐって多くの者が争った。秘宝を手にした者の中には、その強大な力を利用し、自ら新しい神と名乗る者が現れ始めた。

そんな時代、主人公の父は、幼い主人公に秘宝のうちの一つを預け、誰にも渡してはいけないと言い残して旅に出た。

時は流れ、成長した主人公は、帰らぬ父を捜し出すために旅立つ決意をする。優しい母や、お世話になった先生に別れを告げ、学校の同級生3人と共に、旅立ちの途についた。

ゲームシステム

種族
主人公や仲間として選択できる種族は、人間、エスパー、メカ、モンスターの4種である。主人公にどの種族を選んでも、ストーリーは変わらない。以下は主な特徴である。

にんげん(人間)
前作とは違い、戦闘を重ねることで成長する。防御も上げることが出来、また書物の使用などで大変金がかかるが魔力も成長させられるようになった。どの能力が上がるかは、使った武器・防具によって左右される。たとえば、威力が力に依存する武器を使うと、力とHPが上がる。また、より強い敵と戦うほど成長しやすい。特殊能力は一切使えないが、アイテムは8個まで装備できる。男女の性別を選べ、成長の傾向がやや異なる。なお、説明書に記載はないが、盾を使うことで防御が上がることがある(エスパーも同じ)。このほかに非売品の成長アイテムを使うことで能力を上げることもできる。
エスパー
戦闘を重ねることで成長する。どの能力が上がるかは、前作とは違い人間同様となった。ただし、人間より魔力が上がりやすく、逆に力は極端に上がりにくい。通常ではアイテム装備欄8つのうちで、最大で4種の様々な特殊能力を覚えることができる(主な特殊能力の効果については後述)。ゲーム開始時は特殊能力を1つ覚えている。新しい特殊能力は、戦闘後の突然変異で覚えることができる。強い敵と戦うほど上位の特殊能力を覚えやすい。こうして覚えた2つめ以降の特殊能力は、アイテム装備欄の空きに記録される。一度特殊能力が記録された欄には、二度とアイテムを装備できなくなる。空きがない場合は、装備欄の最下位にある特殊能力を忘れ、新しい特殊能力に入れ替わる。そのため要らない特殊能力を装備欄の最下位に移動させることで成長をコーディネートすることが出来る。特殊能力の使用回数は、宿屋・コテージに泊まるかエリクサーを使うと全快する。男女の性別を選べ、成長の傾向がやや異なる。成長アイテムを使うこともできる。強い敵と戦うほど強力な特殊能力を覚えるという概念は、後のサガシリーズで登場する閃きシステムへと継承されていった。
メカ
戦闘では全く成長しない。アイテムを装備することで能力が上がり、能力の上昇値は装備した武器や防具、その他アイテムの特性によって異なる。ただし、魔力は基本的に上がらず、特殊能力は一部の例外を除き使えない(特殊能力の内、使えるのは初期装備の「○マヒ/どく」のみ。特殊能力のため、装備欄から外すことはできない。また、このため、メカは7つの装備品を装備可能となっている。)。先述のとおり、アイテムを装備しても魔力が基本的に上がらないため[1]、魔力依存の武器や書物を使っても効果はないが、秘宝・まりょくのマギを装備して魔力依存の武器や書物を装備させて使った場合のみ、敵にダメージを与えたり、味方のHPを回復させたりすることができる。また、アイテムを装備すると使用回数が半減してしまい、装備から外す際にも更に半減するが、装備したアイテムは使用回数が0になっても消滅せず、宿屋・コテージに泊まるかエリクサーを使うことによって、最大値(装備前のアイテムの最大使用回数の半分)まで回復する。例外として使用回数が無限のものは装備しても無限のままであり、技に分類される武器は装備しても使用回数は半減せず回復させることもできない。また、弓や銃に分類される装備で攻撃するとダメージが2倍になる特徴を併せ持つ。
モンスター
戦闘では全く成長しない。敵を倒すと肉を落とすことがあり、その肉を食べて別のモンスターに変身することにより成長する。変身後にどのモンスターになるかは一定の法則に基づいており、現在どんなモンスターでどのモンスターの肉を食べたかで決定される。食べ合わせが悪いと、変身前より弱くなることもある。変身後の能力は、敵として出現する同名のモンスターと同じ。敵としては登場せず、肉を食べることのみによって出現する味方専用のモンスターもいる。アイテムは全く装備できず、生まれ持った能力だけで戦う(例外として、敵として出現する「だいあくま」はアイテムを標準装備している。アイテムの取り外しも可能だが、そのまま宿屋に泊まるとハングアップするバグがあり、また新たにアイテムを装備することはできない)。能力の使用回数は、宿屋・コテージに泊まるかエリクサーを使うと全快する。 こうした特徴は、前作と変化がない。しかし、前作では使えた「序盤で準最強モンスターを作る」ことは、食肉システムの仕様の変更により不可能となった。

2009年01月17日

空色勾玉(そらいろまがたま)

空色勾玉(そらいろまがたま)は、荻原規子のデビュー作となった小説。第22回日本児童文学者協会新人賞受賞作(1989年)。日本神話をモチーフにしたファンタジー小説で、『白鳥異伝』・『薄紅天女』と合わせて勾玉三部作、勾玉シリーズと称される。

輝(かぐ)の大御神に属する地、羽柴の里に育った少女狭也(さや)はある日、楽人として立ち寄った土蜘蛛と覚しき異郷人の一行に出会う。彼らが言うことには狭也は水の乙女・狭由良姫(さゆらひめ)の生まれ変わりではないかという。一行が村を去る時、狭也は老婆から空色の色をした勾玉を渡される。一行が去り一人になると、嬥歌(かがい)を避けて言った不在のはずの憧れの存在、月代王(つきしろのおおきみ)が立っていて、狭也は彼と照日王(てるひのおおきみ)の治めるまほろば・輝の宮に誘われることとなる――。輝の宮で不思議な人物・稚羽矢(ちはや)と出会ったことで狭也は大きな運命に巻き込まれていく。
王様 ケルピ つまごい まさめ ドンタ ラドン スラグ リリース れんがいろ イグアナ ジーユー プロデュポ 寛仁 日野菜 かやべ 睡蓮 リサーチ 鳥のくちばし ながぬま ロット シンビ ロゼ オフデイ トラン ナノチュ シエスタ サンリ ハイル ドルメン シンデレラ せーじ フットギア アムス チャル 雪うさぎ ファム あんず ディレッ ランプ マチュピ とうゆう 竜馬の如く イカオ 春夏秋冬 モンスーン ムイズ しゅくや ユニテリ リードオ パーセク

不死の輝(かぐ)の勢力と、限りある命の闇(くら)の勢力の戦い、葛藤が背景となって演じられる物語。

登場人物
狭也(さや)
闇の一族で、羽柴の村に住んでいた15歳の少女。闇の女神に仕える巫女であり「水の乙女」。生まれた時に水色の勾玉を握りしめて生まれてきたので、右手に赤い花のような痣がある。6歳の時に本来住んでいた村を照日王・月代王たち輝の一族に襲われて火事になったところを命からがら沼地に身を隠してやり過ごした(6歳まで住んでいた村が輝の一族の考えに反対していた為と思われる)。その後は山の中を彷徨い、餓死寸前のところで現在の養父母のもとで元気に育った。前記のような過去があったせいか養父母と一緒に暮らし始めた時から、夢の中で度々火事の時のことを見ており本人は早く忘れたいと思っているが、年齢を重ねるごとに夢の内容が鮮明になっている。村の祭りで月代王と出会っていて、その時に結婚を申し込まれたこともある。密かに「月代王=輝一族」へ憧れていた狭也は結婚話に承諾(しかし後に拒否)をし月代王が住んでいる輝の大御神へ移りすんだ(狭也は「大蛇の剣」を鎮められる唯一の巫女であるため、そのために連れて行かれた可能性もある)。しかし、今までの暮らし方を拒否され人形のような暮らし方を強制的にさせられたり、唯一の心の拠り所であった月代王本人からも自分自身ではなく「水の乙女=狭由良姫」、つまりは狭由良姫の面影を通して狭也を見ていることを知り次第に抜け殻のような生活を送った。稚羽矢と一緒に照日王・月代王たちから離れて、「大蛇の剣」を持って岩姫たち闇の一族と合流を果たし輝の一族と敵対する意思を固める。その後は、徐々に稚羽矢と距離を縮めていった。稚羽矢同様に、長い間の輝と闇の争いに決着をつける重要なキャラクター。作中では、数多くの水の乙女たちの中でも、狭由良姫に似ているらしい。
稚羽矢(ちはや)
輝の末の王子で、照日王・月代王たち二人の弟。上の姉や兄たちから小さい頃から異端者といわれ、暗い倉のなかで生活をしていた。そのような扱いを受けていた為に本人も自分は異端だと思っていた。また、身の回りのことは年老いた盲目の巫女が世話していた。自分以外に口をきいてくれる人がいなかったので、鼠や魚に自分の意識を憑依させて度々「外」の世界へと出ていたが、姉の照日王からは「二度とするな」と怒られた。また、倉のなかでは「大蛇の剣」の鎮める巫女の代わりをしていた。狭也と会うまでは、考えたり知ろうとする行動を起こしたことさえなかった全くといっていいほどの無知であった。照日王輝の一族で唯一、「大蛇の剣」を扱うことのできる「風の若子」でいつしか「大蛇の剣」の力を身の内に納め力と同化するようになる。輝の大御神を出た後は、「父神を殺すか、父神に殺される」という運命を背負う。
照日王(てるひのおおきみ)
輝の大御神の第一の姫御子で、月代王、稚羽矢の事実上の姉。父神の左目から生まれたとされている。父神から「父神が自分達を遣わしたのは、この地の闇を一掃し、光り輝く新しい世界を創造するため」と信じていて、父神からの頼みは必ず遂行する信念をもっていて、その目的のためなら容赦なく冷徹になれる女性。「水の乙女」を嫌っており、狭也にも冷たい態度を取ったり、月代王にも何度も「水の乙女」を嫁として迎えていることを諌めている。これは何度も「水の乙女」を娶っても彼女たちが狭也と同様に月代王に対しての恋愛の情が揺らぎ、最期は自害しているからである。弟である月代王と肉体関係があるかのような描写が本編のなかに出てくる。
月代王(つきしろのおおきみ)
輝の大御神の第二御子で父神の右目より生まれたとされている稚羽矢の兄。姉の照日王と一緒に父神降臨の為、光の国の創造をする為に度々戦に明け暮れた生活をしているが、照日王ほど父神の言葉を信じきれず半信半疑でいる(月代王自身は「父神の目的は闇の女神の復活」という見解を示している)。そのせいで、父神のことを巡って衝突することすらある。「水の乙女」の存在に惹かれている。そのため、生まれ変わった水の乙女たちを度々己の嫁として迎えているが、そのたびに上記のとおり水の乙女は自殺をしている。が、彼は何故彼女たちが自殺をしていくのかが理解をしていないため原因が己自身のせいだということに気づいていない。そのため狭也がなぜ己を拒んだのかにも気づいていない。作中は度々彼の口から狭由良姫の名前が出てくることから、歴代の嫁として迎えてた水の乙女たちの中でも狭由良姫と過ごした時が一番楽しかったのか、それとも、それが一番新しい嫁として迎えた記憶だからなのか、その心境はよく判らない。
鳥彦(とりひこ)
闇の一族の一人。狭也が闇を拒絶した後も、変わらず近くにいて困った時も助けたりしてくれた。「大蛇の剣」奪還のため、まほろばの都に潜入したこともあるが、輝の御子二人に捕らわれた。「大蛇の剣」が発動した際には、逃げる事かなわずに、一度命を落とすが魂は、カラスに移ったためにその後鳥の王として生きることになる。闇の一族の中でも、狭也の一番の理解者でもある。命を落とす前は二羽のカラス「黒兄(くろえ)」と「黒弟(くろと)」を連れていた。
岩姫(いわひめ)
闇の一族の一人で、前世からの記憶を連綿と持っている。その時々の闇の一族の導き手となる。岩姫の年齢を正確に覚えているものはいないため、推測ではあるが恐らく500歳であろうとされる。
伊吹王(いぶきのおおきみ)
闇の一族。稚羽矢の剣の師匠で、剣技を教えるとこで、稚羽矢の幼いながら純粋な気持ちを理解する。後に闇の者達に、稚羽矢が輝の一族であることが広まり裏切り者の疑惑が出てきた際には、唯一彼を理解し、彼の暴走を止めることができた人物。
開都王(あきつのおおきみ)
闇の一族。輝の一族との戦いの総司令官的存在。そのこともあってか、稚羽矢や狭也のことに関して一番冷静に見ている人物。狭也への良き助言者でもある。
科戸王(しなどのおおきみ)
闇の一族。稚羽矢に対して輝の一族であると一番敵対心を持っている一人。狭也に恋心を抱いているが、狭也からは「恐い人」と思われていて全然気づかれていない。